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Friday, April 27, 2012

The upper reaches of the Edogawa River: photo walking

江戸川の上流域、写真散歩…♪

桜が散ってしまっても、ハナミズキが代わってあでやかな花をつけ始める。

我が家の近くには街路樹がハナミズキの長い通りがあって、その街路樹が満開に近づくと私は
「花冷えの季節」が去って『カメラ片手の散歩(photo walking)』の季節が来たことを実感する。

私は今年も「さくら」や「はなみずき」をたくさん写した。
春の季節を感じながら写真を撮るのは、やっぱり気持ちが良いものだと思う。

きもち良いものを代表する言葉に、春風夏雨(しゅんぷう かう)があるが、春の薫風はとりわけここち良い。

サクラを楽しみ、ハナミズキを楽しんだ私は、こんどは春の風を楽しみたいと思い、春の水面(みなも)
わたり来る風をもとめて、カメラ片手に江戸川散歩へと出かけた。
 


江戸川河口堰から河口付近の三番瀬へと向かおう~とも考えた。
でも今回は、広報の記事に誘われて、長閑な春景色が楽しめそうな上流域へ向かうことにした。

東京都民の重要な水源でもある江戸川は、千葉県と埼玉県と茨城県の三つの県が交わる「関宿分岐」で
利根川と分かれる分流であり、流路延長60km弱の短い部類の河川である。
 


今回のphoto walkingもやっぱりレンズ一本勝負
レンズ1本勝負といえば、28mmもしくは 35mmをつけることが多いのだが、今回はEF85mm F1.8 USM
をつけた。

レンズ一本勝負は~多くのスナップ写真ブロガーと同じ気持ち、 ボディ1台にレンズ1本だけの身軽さで、
可能な限り多くの場所を歩き回りたい~からに他ならない。

85mmといえばポートレートレンズ、photo walkingに向いているとは言いがたいが、それでも、
このレンズで撮れるものだけを撮る



歩きながらパシャ、パシャと撮ってゆく。
歩くリズムに合わせて、シャッターを押してゆく
装着した32GBのCFカードは、1日位のphoto walkingでは、オバーフローすることはない。

CFカードには『何てこと無い写真』が、どんどんたまって行く。
アングルや、フレーミングにちょっとだけ気を遣っても、決して、名作を撮ろうなどと思わない

気の向くままに、シャッターを押していくだけだ。
春の風に吹かれながら、パシャ、パシャ~これがまたタマラナイ!



**

Saturday, December 4, 2010

Mysterious healing dripped even if photograph is taken.

写真撮影は癒し♪

奥日光の燃え上がるような秋彩が、滝の周辺を染め上げていた。
滝からの飛沫しぶき)が、微粒子となって舞い上がり、ブラウン運動を繰り返しながら浮遊する。
小春日和の陽射しが、水の微粒子に衝突してエネルギーを与え、微粒子はさらに耀いて、舞い踊る。

美しい。
ほんとうに美しい。
この美しさを写真に留めたいと願う私であったが、
まるで意地悪でもするかのように、滝の飛沫は、みるみるうちにカメラのレンズを曇らせた

レンズを曇らせただけでは満足できなかったのか、さらに大きく膨らんで、私の全身をスッポリと
被覆する。



すると、どうだろう。
身体が軽く感じられてきて、楽しい気持ちになってくる。

苔のようになって、こびり付いていたイライラ感焦燥感が、サラサラと音をたてて流れ出して、
全身が浄化されるような快感に満されていく。

写真散歩で格好のロケーションに行き着いた時、何かに熱中して我を忘れている時、忽然として表れる
この夢心地は、これまでにも、実は、何度か経験している。
今回の滝を目前にしての不思議な経験も、写真好きに与えられる癒しであると信じている。

此のときの被写体は、必ずしも美しい自然景観である必要はない。
幼児のあどけないしぐさや、日頃から愛情をそそぐペットたちを撮ることによっても、もたらされる。

心地好い癒しは、直ぐに消え去ってしまうことはない。
余韻を留めて、ものの見方や考え方を、ネガティブなものからポジティブなものへと変えてくれる。



奥日光の紅葉狩りから数週間を経た11月末の金曜日、私は東京に帰る新幹線の中にいた。
こんな時、短い移動時間を利用しての“ブログ・サーフィン”は、最高の楽しみ。

この日、趣味写真の修業に励むブログ友の記事の中に、私もむかし心酔したことのある禅語を見つけた。
              安禅不必須山水 滅却心頭火自涼
(あんぜん かならずしも さんすいをもちいず しんとう めっきゃくすれば ひも おのずからすずし)

武田信玄の禅の師であった、恵林寺の“快川禅師”は、燃え上がる山門楼上の上でこの禅語を放った。
信玄亡き後、武田家が織田信長に滅亡させられた時、快川(かいせん)は武田家に殉じたのである。
織田軍は恵林寺を急襲して、快川らの一山の僧侶を山門楼上に追い込み、周りに薪を積んで火を放つ。
燃え上がる火の中で快川禅師は、楼上の百名を越える弟子達に向かって、最後の教えを垂れる。



坐禅する場所は、必ずしも(静かな)、山中や水辺で無くても良いのだ。
こだわる心を断ち切って無心に徹するならば、雑音も熱さも…おのずから無関係なものとなる。

火は熱いもので、熱さに変わりはないが、熱さを熱さとしてそのまま受け入れたら…と、教えている。
死がそこまで近づいている情況にあっても、
ギリギリまで、ありのままに受け入れる心を育てよと、教えている。

迫りくる熱い火も、自(おのず)から涼しくなる。
こんなにも静かで、澄みきった境地』こそが、癒しの究極なのかも知れない。



Monday, August 9, 2010

British affairs part 2: Black cabs in London

英国事情 その2:ロンドンのブラックキャブ♪

身軽な街角散歩を楽しもうとホテルを出た。
サマージャケットのポケットには、パスポートと小銭とスマートフォン(Xperia) のみ!

エクスペリア(Xperia)は、フイルムカメラGR21に代わる武器である。

高度のカメラ機能を備えたスマートフォンは、異国の街歩きの最高のお供となった。
GPS機能を使えば、知らない街でも、道に迷うことはない。
街の情報をネット検索すれば最新の詳細ガイドブックとなり、英語辞書機能の活用も容易になる。

810万画素、顔認識エンジン、手ぶれ補正…などの機能を駆使して撮影したXperia写真は、
そのままクラウド(cloud)にアップして、Picasa Facebookで管理する。



街歩きを楽しんでいると、突然の雨に出会うことがある。
突然の雨は日常茶飯事、『1日のうちに四季がある』といわれるくらいに、この地の天気は変わりやすい。

こんな時には、ブラックキャブの愛称で親しまれるロンドン・タクシーがありがたい。


英国紳士が山高帽を被ったままで乗れるように屋根が高くなっている。
黒塗り車両の室内は、歴史的デザインのためか、とても広々としている。

そしてブラックキャブの運転手になるには、厳しい国家試験にパスしなければならないらしい。

試験に合格するためには、ロンドン市内に 25,000あると言われる通りの全てと、
全ての 駅・劇場・病院・主要ホテル の位置関係を即座に頭に描けなければならない…のだと、云う。

行き先を告げて、
ゆったりとシートに身を委ねて、運転手にすべてを任せることで、快適に移動することができる。
この快適・安心・安全のブラックキャブは、
世界のホテル情報サイトで『2009年の世界最良タクシー』の栄誉を得た。


クラウド端末としてのスマートフォンを持ち、ブラックキャブ二階建てバス世界最古の地下鉄
恵まれた“此の地の街歩き”は、例えようが無いくらいに…心地良い。



Wednesday, August 4, 2010

British affairs part 1: British mountain

英国事情 その1:イギリスの山♪

友人の言葉が始まりだった。
“Ben Nevis is the highest mountain in the British Isles.”

ベン・ネビスという、スコットランドに位置する、この山の名は、これ迄に何度も聞かされていた。

何度も聞かされてすっかりお馴染みとなったベン・ネビスだったが、
その標高を訊ねると、わずか 1,344mに過ぎないのだと言うではないか。

英国最高峰とされる山なのに~」と、その余りの低山ぶりに、私は正直言って驚いた。

軽井沢に向かう碓氷バイパスの最高地点が標高 1,000メートルを超える。
軽井沢に住む人達にとって、国道17号の標高 1,000mは“日常の暮らしの一部”なのだと思う。

英国の最高峰が 1,350mに満たないということを知って、日常の暮らしに近すぎるように感じられて、
少なからず違和感を持ったものだ。



スコットランドの最高峰はベン・ネビスで、これが英国の最高峰でもあった。

ならば…と、「それでは、イングランドの最高峰は?」と聞き返すと、
直ちに「湖水地方Lake District)にあるスコーフェル・パイクScafell Pike)」との答えが!

そのスコーフェル・パイクの標高は~なんと978mで、こんどは~1,000mにも満たないのだ。

山らしい山が、英国には少ないようだ。
にもかかわらず英国は、エベレスト初登頂のヒラリーや、
マッターホルン初登頂のウィンパーを初めとして、傑出した登山家を多く輩出している。


 
英国の山歩きは、本格的な登山climbingというよりは、丘歩きhill walkingに近いのかも知れない。

丘歩きファッションは、“赤い防雨ウエア”と“白い帽子”の組み合わせが流行っている。
これはこれで、とてもよく似合っていると思う。

ヒル・ウォーキングで汗ばんだ肌に、涼やかな爽風がここち良い(^_-)-☆



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Tuesday, May 11, 2010

Petit photo-trip, Katsushika-Shibamata Part2

小さな旅~葛飾柴又(第2部)…♪

桜が咲いております
懐かしい葛飾の桜が今年も咲いておりまぁ~すッ
わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です
帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します


渥美清が演じる“フーテンの寅”は、映画の冒頭で、この有名な口上を述べる。
帝釈天を語るに、柴又を舞台にした映画『男はつらいよ』を抜きに語ることはできない。

昭和44年(1969)から平成7年(1995)に至る「寅さん映画・48作」は、
ギネスブックに「同一俳優による最長寿シリーズ」として認定されている。

1996年に渥美清が他界して、寅さんシリーズは終了した。
同時に、この耳に馴染んだ香具師の口上も消えてしまった…と思っていた。

でもそれは間違いであった。
この日、帝釈天の境内で、レスリングの浜口京子さんに似た猿まわしが、寅さんお馴染みの口上のように、可笑しく流暢な口上を披露して、我々を楽しませてくれた。




奈良時代の嶋俣(しままた)、すなわち現在の柴又には、孔王部(あなほべ)姓の一族が住んでいた。

養老5年(西暦721年)の戸籍には、
孔王部刀良(あなほべ とら)、孔王部佐久良売(あなほべ さくら:「め」は女性であることを示す)の名が
残されている。

映画「男はつらいよ」の舞台となった葛飾柴又には、1300年前にもトラさん、サクラさんが暮らしていたことになる。

帝釈天と草だんごに代表される『柴又名物』であるが、これに「寅さん」や「さくらさん」が加えられても不思議ではない。
帝釈天や草だんごよりも、寅さんやさくらさんの方が、葛飾柴又にとっては古くからの馴染みなのだから。

映画の中に必ず登場する「帝釈天参道商店街」は、映画の重要な構成要素となっている。

今も参道で店を営む高木屋老舗が、寅さんが帰郷する『くるまや/第39作まではとらや』のモデルであり、
この高木屋老舗の女将さんが、“オバちゃん”のモデルになったといわれる。




帝釈天の正門にあたる二天門は、映画の中に度々登場した。

ニ天門に下に立つと、寅さんが帰郷するシーンや、マドンナが柴又まで寅さんを訪ねてくるシーンが思い出され、笠智衆が演じた御前様や、寺男役の佐藤蛾次郎の姿が懐かしい。

下町情緒を色濃く残す帝釈天参道は、この門から京成柴又駅の寅さん像がある駅前広場まで続く。
参道の長さは約250mと、歩いて感じる以上に短い。



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Tuesday, May 4, 2010

Petit photo-trip, Katsushika-Shibamata Part 1

小さな旅~葛飾柴又(第1部)…♪

今年のゴールデンウィークは、25年ぶりと報道されたように、青天の日が続いている。

まるで、
季節の恒例のように思える『高速道路大渋滞』のニュースが、
今年の晴天によって、拍車をかけられているように感じられてならない。

これに加えて、前原国土交通相の
休日マイカー高速料金、上限千円の割引制度を、五月末で終了する…」との発言が、
われわれ庶民の外出意欲を喚起して、この大渋滞に、さらなる追い討ちをかけることとなった。

休日マイカー割引制度は、とても魅力的な制度であった。
私の場合これを利用して田舎に帰ると、往復二万円近い高速料金が、その十分の一の二千円で済む。

ガソリン代を加味しても、
飛行機利用はもちろん、新幹線利用(補足:北陸新幹線は未開通)よりも安く、
女房と二人で帰れば、更に子供の家族が加われば、それはもう、破格の値段の格安帰省が実現される。

「安く帰れる時にこそ、帰っておきたい」と、誰もが、そう願う。
今回の帰省が「格安帰省の最後の機会になる~」のかも知れない…のだから。



格安の費用で帰省することが目的であって、これが満たされるのであれば、大渋滞は想定内のこと。
如何に大渋滞の時期にあっても、必ず渋滞が緩む時間帯が有ることを…私たちは、経験的に知っている。

古人の『忙中閑あり』という名言を信じて、
出発の日時を探ろうと、ネットなどを駆使して道路の混雑状況を調べていた。

混雑する朝夕は、50㎞から60㎞の大渋滞が頻発して、
関越道はもちろん、上信越道の各所で、普段は混まない日中でさえも、30㎞前後の渋滞が起こっている。

渋滞は想定内としたが、これ程までの渋滞は、まったくの想定外

残念ではあるが、今年のG.W.は子供たち家族と別行動をとることにして、女房と私は 京成電車で 寅さんとさくらさんの“柴又”へと向かった


記録によれば、古より葛飾柴又(かつしか しばまた)には、トラさんとサクラさんが住んでいた




   人影が無いような“うすきれいな町”に行くと、僕は手も足も出ないんだよねッ!

これは森山大道の言葉、彼は世界的に人気を博す日本写真界の大御所である。
人混みこそが、町の美しさなのだ」と言ってはばからない彼が選ぶ撮影場所は、新宿などに代表される
ように、人が多く集まる場所。

私がスナップの場所として選ぶのも、
同じく人が多い場所であり、人ごみの中に自分自身が埋没できる場所をベストとする。

私の 心惹かれる写真のモチーフは、『人の居る風景』に他ならない。

帝釈天へ行けば、いつも、人があふれている。
庚申の日ともなれば、境内ばかりでなく下町情緒を残す参道までが、数十万人の参詣客で溢れ返る。



常用感度であるiso=400は、今回もその設定は変わらない。
絞りをf=8に固定して、2~3mに置きピンして撮った写真は、凡そパン・フォーカス状態(^^♪

置きピン撮影は、AFの合集点時間の遅れによってシャッターチャンスを逃す心配を無くしてくる。
大げさに言えば、スナップシューターは、シャッターチャンスの一瞬に生きている。
ゆえに、合焦時間の遅れが、致命傷になることもある。
置きピン撮影は、その失敗を防いでくれる。


[2010年]5月3日に帝釈の天参道で撮った“人ごみスナップ”の中から今日は、3枚選んで掲示した。

人と人との“微妙な距離感覚”を重視して選び出した3枚である。
カルティエ=ブレッソンから学んだ、“配置の妙”を感じて頂けたら、これに勝る喜びはない。


Tuesday, April 27, 2010

Omikuji, fortune-telling of love

おみくじで恋占い…♪

Omikuji (divine fortune) are written fortunes available at both shrines and temples.
The degree of fortune are daikichi─great; kichi─good; shôkichi─moderate; kyô─bad. There are various opinions about what to do with the paper when you’ve read it.

If their fortune is bad, many people tie it immediately to a branch of an adjacent tree as a prayer for divine protection (sute-mikuji) .

The shrines and temples suggest you should eventually return the paper, if possible to the same place where you received it, and tie it up.



そよ吹く風が、やけに冷たく感じられる日であった。
このところ、よく取沙汰される異常気象が、湿度を異様なまでに押し下げているようだ。
春の陽射しの桜の季節が、あたかも初秋であるかの様に思われた。

こんな日には決まって、カメラ片手の「気楽な街歩き」へと、洒落込みたくなる。

歩きながら街角スナップを楽しむ行為は、写真散歩とか、Photo Walkingとか云われたりもする。
私は、これを「小さな旅でもある』と思っている。


電車で行こうが、バスで行こうが、問題にはならない。
交通手段が問題にならないのは、乗り物を降りて、歩き始めてからが『小さな旅』なのだからである。

小さな旅には、様々な場面との出会いがあり、沢山の人との出会いがある
この出会いこそが、小さな旅の楽しみなのだ。
カメラを持っているだけで、人に気安く声をかけてしまうのが不思議だ

カメラを持つと人に気安く声をかけるのは、
登山で人とすれ違う度に「こんにちは♪」と声をかける作法に似ている。

カメラは人と対話する道具である』…と言われるのも、あながちマチガイでは無いようだ。


  長い石段を一気に駆け上り、息をきらす私の視界に、若い二人が映った。
  沢山の参詣者の中で、どうしてこの二人に、視線を奪われてしまったのだろうか。
  肩を寄せ合うようにして、おみくじを読む二人の、余りに真剣な後姿に惹かれたからなのだろう。

  一度は切らした息を静かに整えて“二礼二拍手一礼”の参拝をすませ、
  拝殿から社務所に向かって歩いた私であったが、
  其の時になっても、若い二人は、まだおみくじを読み終えてはいなかった。
 
  おみくじには、いったい何が書かれているのだろうか?
  興味津々の思いに駆られた私は、そっと二人に近づいて、カメラのシャッターを切った。


近接撮影した若い二人の写真には、後姿のみで表情が写っていない。
写真教程の教科書には、きまって『人を撮る写真は、表情が決め手になる』と書かれている。

それでも私は、
写真に写る表情ばかり気にしていると、人間の本当の顔が見えなくなる…のではと心配するのだが…!


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Wednesday, March 31, 2010

They tried to find beauty in the existential loneliness.

実存的孤独の中に美を見い出す…♪

  hana  mori  ya
          siroki  kasira  wo
               tuki  awase      Haiku by Mukai Kyorai:


      Two blossom-watchmen
      With their white heads
                                    together
      Having a chat.


Such a synthesis of conflicting aesthetic value, the gorgeous beauty of the white cherry blossoms and the colorless beauty of white haired old men, elevates loneliness to a higher level of meaning.

A people awakened to the essential mutability of life does not dread physical waning or loneliness; rather, he or she accepts these sad facts with quiet resignation and even finds in them a source of enjoyment.

This idea fostered by Bashô and his followers is called sabi.


※ ─ 花守や 白きかしらを つき合わせ ─ ※
 芭蕉の高弟を蕉門十哲と呼ぶが、この句は、十哲の一人、向井去来(むかいきょらい)の作である。
 この句に詠まれた情景は…新たな生命が躍動する季節・春。


 満開に咲き誇る桜の
 淡いピンクの花びらが 辺り一帯を覆う時、
 桜の花は、場合により、真っ白く見えたりもする
 桜の傍には、花守の翁がいる。 その翁の髪も、真っ白である。

 俳人・去来は、

 “真っ白く見える”満開の桜の“ゴージャスな美しさ”に、
 桜を守る翁の“真っ白い髪”が持つ“無彩色の美しさ”を組み合わせた。

 白髪の老人なった…花守と、春の旺盛な生命活動を再開する…桜。
 そこには、永遠の命に対する憧れがあるように思えてならない。


 対立する美的価値を組み合わせたこの句は、
 “年老いて偲び寄る孤独”に、より深く、より高尚な意味を与えているのだと云う。


※ グレイマンからホワイトマンへ…! ※
 人の世の無常に目覚めたひとは、肉体の衰えや孤独をおそれることはないと云う。
 衰えや孤独を静かに受け入れるばかりか、喜びを…さえ、見出してしまうと言うのである。

 人間の実存的孤独を認識し自らその孤独に身をまかせ孤独の中に美を見出す…、
 この(さび)と呼ばれる俳句の理念は、松尾芭蕉とその一門によって確立された。

 若い頃から白髪が目立った私・Graymanであった。
 頭髪は更に白さを増して、GraymanからWhitemanへの名義変更に迫られるのも間近いだろう。

 もちろん“翁”と呼ばれるには、まだ少し時間的余裕があると思っているが、

 私が、この去来の句に表現されたような“寂の心境”になることが出来るのは、
 はたして、いつの日のことであろうか…?!

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Sunday, July 19, 2009

Natu-maturi-dô, the art of connecting with the passage of the seasons

夏祭り道(なつまつりどう)、なんでも芸術にまで昇華させる日本…!

In the U.K., the British just slosh tea carelessly into mugs slurp it down, but here in Japan we have created sadô, the tea ceremony.

For the display of flowers, we have created kadô, or the art of flower arrangement.

Strictly speaking, ideograms fulfill their function if the person to whom they are addressed is able to read them, but still in Japan we have come up with shodô, the art of calligraphy.

We Japanese turn everything into an art.

I think similarly, there is even something called natu-maturi-dô, the art of connecting with the passage of the seasons.

お茶することや、花の飾り方、字の書き方など、
すべてを深遠な体系の(どう)にまで高め上げる。
我々の祖先は、自然に対する繊細な感受性を源泉とした美的情緒を備えていた。

彼らは、
日常すべての…茶飯事(さはんじ)を、芸術へと昇華(しょうか)させてしまった。
昇華する基準は、ひたすら美的情緒(びてきじょうちょ)のみ。
美的情緒が、日常茶飯事の行為を、茶道華道書道にまで高めたのである。

美的情緒が組み込まれたのは、なにも、茶道、華道、書道…だけでは無かった。
季節のうつろいに 深くかかわりを持たせた 季節の祭りにも、美的情緒を種とする
美しい作法が、
組込まれている。

例えば、祭りの衣装を見てみよう。
半被(はっぴ)にハチマキの いなせな姿が、雰囲気を盛り上げる。

大小様々な団扇(うちわ)が、取り揃えられて、溢れだす熱気に、煽がれる。

女性の浴衣も、好ましい。
祭りの日の、暮れなずむ頃に観る 大和撫子(やまとなでしこ)の浴衣姿ほど、艶かしいものはない。
世界に誇る日本の美…、ここにも、美的情緒からの美しい祭りの作法が感じられてならない。


熱狂と陶酔の夏祭り…♪

季節の祭りの中でも、農耕や開始にその年の豊穣を祈る春祭りと、秋の収穫に感謝する秋祭りは、とりわけ重視された。


では、夏祭りは どうなのであろうか。

農薬が開発されておらず、近代農法が確立されていない昔のことである。


夏は、農作物がもっとも被害を受けやすい季節であった。
蒸し暑い夏は、ものが腐りやすく、食中毒や疫病(えきびょう)が まん延する、恐い季節でもあった。

人々は祈った。
無事に夏を過ごせるようにと祈ったのである。
今に伝わる「夏越の祓え(なごし の はらえ)
(← Click, please)」も、そのひとつ。

一年をとおして最も恐い季節…夏に催される(日本の)夏祭りは、概して威勢が良いようだ。
八百万(やおよろず)の神々や、身近に鎮座する氏神様(うじがみさま)に、日頃の恩恵を感謝するとともに、恐怖の夏を無事に乗り切るように祈るからだろう。


魔物を吹き飛ばすように威勢よく神輿を担ぎ、山車を繰り出して、熱狂して高らかに祈りを捧げる。
威勢のよさと熱狂のなかにも、決して破綻することの無い、美しい祭りの作法が潜んでいる。


湯上りの香りが漂う、そんな涼しげな浴衣姿の 艶やかで美しい情緒がある。
勇壮な神輿が作る、お神酒が漂う熱狂と陶酔の中にあっても 破綻をくい止める美しい情緒がある。

ところで皆さん…皆さんは、

いったい何に祭りに組込まれた美しい情緒(じょうちょ)を、お感じになるのでしょう?